吉本 洋とは?
社会福祉法人 恵寿会 統括施設長
日本福祉防災楽会 会長
御船町観光協会 理事
吉本 洋(よしもと ひろし)
1971年大分県生まれ。
高校時にアメリカへ留学し翻訳家を志す。福岡大学経済学部へ入学したが、違和感を感じ退学。しばらく自分を見つめなおす充電期間を経て、株式会社ファミリーマート入社。社会の目まぐるしいスピード感の中で、常に変化するコンビニ業界や新しい事へ挑戦しづつける仕事に魅力を感じていた。そこで、妻と出会い、結婚を機にファミリーマートを退社。
平成14年9月から社会福祉法人 恵寿会に入社。平成18年4月から施設長へ就任。翌年の4月に御船町社会福祉協議会の理事に就任。現在に至る。
■主な活動
介護保険施設のあり方に、日々疑問を持ち、子どもとお年寄り、地域の方を交え、世代間交流、自然体験活動のたいせつさを訴えかける。『安全という名の施設閉じこもり』防止に日々奔走。また、最近では、異業種と交流し、新しい福祉の文化の在り方を模索している。平成28年熊本地震以降、報道では、決して伝わる事のない実際に起きた施設の中での対応を県外に発信し、当時の課題と今後の災害対策についての提言をしている。
【好きな言葉】
挑戦
【座右の銘】
武士道 新渡戸 稲造著
『礼・・・人とともに喜び、人とともに泣けるか』
『長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨(うらや)まず、自慢せず、思い上がらない』
『自己自身の利を求めず容易に人に動かされず、およそ悪事というものを、たくらまない』
Table of Contents
誕生~幼稚園時代(1971年~1975年)
▲いまはもうなくなってしまった江崎病院で、3500gで産声を上げました!
▲祖母の桑原キツさんにお風呂を入れてもらってます。
母親が元気なうちに聞いておきたい祖母のこと
先日、実家に戻った時に、母親に桑原キツさんのことについて聞きました。色々なエピソードがあり、ゴキブリを見ると裸足で踏みつけていたようです。ゴキブリだけは死ぬほど嫌いな私にとってはありえないことでした。
キツさんの旧姓を母親に聞くと、以首一(いしゅいち)が旧姓だそうです。
おそらく日本にはこの姓字はもうないのではないかと母親が言っていました。
たしかに、以首一(いしゅいち)キツさん・・・すごい名前ですよね。
自分は以首一(いしゅいち)さんの血を引いているので、
以首一(いしゅいち)洋・・・どう考えても、珍しい姓字です。
▲誰にかわかりませんが、ミルクをもらってますね(笑)
▲7年前に他界した父親に抱っこされてます!「なんで洋さんだろう?」と親父に聞いたら、出生届の期限が迫っており、「俺の洋三の漢数字の三を取っただけじゃ」と言われたのが印象的でした。俺って・・・
▲乳母車に乗って、この時期から何か言いたそうな顔をしてますね(笑)いままで過去に一度だけ骨折したことがあります。それはミニカー片手に2階に登っている途中に足を滑らして階段から落ちました。母が言うには、ミニカーが手から落ちないようにかばった為、鎖骨を骨折したようです。それだけおもちゃが大事だったのでしょうね。
▲シャムネコを飼っていました。気がつけば、猫がそばにいる生活でした。猫の生態を誰よりも理解しているつもりです。猫を飼っているならではのエピソードですが、熱いラーメンの汁を恐る恐るすすっていたら、猫がジャンプ。器に猫が頭をぶつけ、想像もしてない熱いラーメンの汁が一瞬にして全身にかかる!!!びっくりしたのと熱いのが同時に襲ってきて熱さを感じたのは数秒後でした。猫に注意。
▲ジュゲムといいます。名付け親が、母方の父・桑原義太郎さんの兄弟の政太郎さん。政太郎さんは隣で歯医者を営み、私の中で政太郎さんの印象は、とんかつが大好きなおじいちゃんです。
政太郎おじいちゃんにしてもらった歯の治療なのに
歯医者は嫌いだった当時の私は歯の奥歯がC3という一番重度な虫歯でした。その際に政太郎おじいちゃんに歯の治療をしてもらうのですが、とにかく嫌で嫌で仕方がなかったです。銀歯の詰め物をするのですが、ガムを食べるたびにその詰め物がカポっと抜けてしまっていました(笑)
ある日、金属製のゴミ箱にガムをペッと捨てたら、ガシャーンといってびっくりしてのぞき込んだら、自分の歯であったことに驚きました!!おかげさまで、結婚してすぐ歯医者に行き、神経を取るという大掛かりな治療をさせて頂きました。
皆さん歯は大事にしてくださいね(笑)
▲母親に聞くと、この時期よく聴いていたのは、なんとFMラジオ!!長女の姉が”カーペンターズ好き”、長男の兄は、”井上陽水好き”なのに、自分は何でラジオ好きなんだろう(笑)
▲映画監督が座るディレクターズチェアに腰掛け、父親が巨人ファンのはずなのに、なぜかタイガースのユニフォームを着せられている(笑)いまとなると誰にもその真相を聞く事はできない(笑)
▲近所のお姉さんとプールへ。いまだに嫌いなスポーツがあって、ひとつは、マラソン。もうひとつは、水泳。きっとこの頃から自分との闘いが嫌いなのかも(笑)
▲この親父のはしゃぎようを見ると、いま自分が三男とはしゃいでいる理由がわかる気がする(笑)
次男が引き合わせてくれたのかな?
先日、次男の運動会を見に行ってきました。
次男の友だちのおばあちゃんがいて、そのおばあちゃんは大分のトキハデパートに勤めていたそうです。
私の妻が、「私の旦那の父親もトキハでしたよ。」と話すと、
「お父さんの名前は何って言うの?」聞いてきたので、「河野洋三です。」と伝えると、
「えっ?」「洋三さん?」
「一緒に仕事したことがあります。」
「とてもやさしい人でいつもニコニコしていて私の話を良く聞いてくれた上司でした。」
というではありませんか!
なんと世の中の狭さ。
妻が私を呼んできて、そのおばあちゃんのところに連れていってくれました。
「洋三さんに似てる!」「雰囲気はそのままですね。」
「今は何をしてらっしゃるんですか?」と聞いてきたので、「残念ながら7年前に他界したのです。」
と伝えると、涙ぐんでくださいました。
母親のことも良く知っているらしく、父親の見えなかった一面が他界してから7年後わかるとは何とも不思議な感じでした。
後日一緒に写っていた写真を送ってくれるそうです。
2020年12月8日に本当に送ってくださった写真がこちらです。
小学校時代(1976年~1983年)
▲タイムボカンシリーズに夢中だったあの頃。”豚もおだてりゃ木に登る”、”ブヒ~ん🐽”。このアニメで流れる決めセリフによく腹を抱えて笑っていました。
▲いまおもちゃ好きなのはこの頃からなのかもしれない。なぜなら、いまでも子どもよりもおもちゃで真剣に遊んでいる自分に気がつきます(笑)
▲みんな体操服なのに、なぜか黄色のTシャツを着ているにもかかわらず、テンションが高い理由がいまだにわかりません(笑)
▲どういうシチュエーションか覚えていませんが、女性に囲まれハイテンション。両手に花🌸いちお、この時期モテてたようでした(笑)
▲サッカーが好きな時期。キャプテン翼が連載が始まったのが、ちょうどこの時期でした。翼くんのオーバーヘッドキックに憧れてよくマネをしていました。上手くいくはずがありません(笑)ポジションはミッドフィルダーのセンターでした。
▲仲良し3人組。自分の大切な友だちをいじめから守りたい。そんな意識を強くもってました。
▲幼なじみと、はしゃいでいたあの頃を思い出します。スタンハンセンとブルーザーブロディーとハルクホーガンが全盛期のプロレス時代。よく友だちとプロレスごっこをして遊んでいました。いまだったらきっといじめになるんでしょうね・・・
▲この頃は、新日本プロレスと全日本プロレスの全盛期。アントニオ猪木のマネしてたのでしょうか?(笑)
▲悪いことをして先生から小突かれた後です。何度小突かれたか覚えておりません。いまでは先生が生徒を小突くなんて問題なんでしょうけどね(笑)
中学校時代(1984年~1986年)
ミステリアスな中学時代・・・。
▲中学校2年生の時の集合写真です。記憶はあまり定かではないのですが、親子の食事会での1コマ。
よく見ると後ろにいる同級生が自分に隠れているので悪意のない写真ではあるのですが、ついそういうふうに見えてしまいますよね(笑)
▲焼き肉食べ放題。この頃から焼き肉が大好きだったのかもしれません。
となりの同級生の持っている肉皿を見ると、どんだけ食べるんだと思いますよね。
▲同級生が引っ越しをするので、クラスのみんなが集まって送別会をした1コマだと思います。
改めてみると「あいつら今何してるのかなーと思います。」というのも、結婚して熊本に来たのでその後の同級生の行方はわかりません。
同級生たちもひょっとすると「あいつどこにいったかなー。」と思っているかもしれませんね。
▲きっとやっちゃダメなことをやっちゃったのかもしれません。集団宿泊で先生からお叱りを受けた場面なのでしょうね。
誰がこの写真を撮ったのかいまだにわかりません。
高校時代(1987年~1990年)
▲大分駅前で、何が不機嫌なんだろう?(笑)いまもむかしも若者って”たむろ”したいものですよね(笑)大分駅でよく遅くまで”たむろ”してました。
▲高校最後の応援団。優勝で有終の美。みんなでこの後、盛り上がりました!応援の演舞「剣の舞」が今でも忘れられず振り付けを覚えている程です(笑)
▲みんな片付けしているのに・・・
▲応援団の打ち上げで、友だちの家で。肩パットが入ったジャケット流行りましたね(笑)時代を感じさせる一枚です。お笑い芸人の平野ノラさんの芸のまさにド・ストライクな時期です。携帯はまだなく、ポケベルでしたが・・・
留学時代(1989年~1990年)
▲姉の学生時代に留学していた時のホストファミリーのトッドさんと別府の地獄巡り。
英語に興味を持ち始め、翻訳家を目指すきっかけになったのはこの時期です。
▲スプリングフィールドの、かの有名なリンカーンの聖地。
「そのことはできる、
それをやる、
と決断せよ。
それからその方法を見つけるのだ。」
- エイブラハム・リンカーン -
▲楽しかったはずのボート初体験。この後、悲劇が!!
▲真冬の冷たい川に落ちました(笑)
▲トッドさん家の駐車場で撮った一枚。ハードロックカフェのトレーナーインが気になりますが(笑)
▲ホストファミリーのクリス・オースティンさんとバス・オースティンさんとの一枚。
▲オースティン家で飼っているレイディー(ドーベルマンとシェパードのミックス)とプランツ(ラブラドール)。
▲卒業式の一枚。Jonasthan Ehrn(左)とWayne Klean(右)。
▲卒業証書。ちゃんと卒業できました(笑)
▲高校の学級通信で留学中当時の私の近況が報告されたようです。
大学時代(1991年~1995年)
▲スペインからの留学生。ハビエラ君。大分の実家に短期留学でやってきました。正月の神社参り。
サラリーマン時代(1996年~1999年)
▲当時ファミリーマートは、アイ・ファミリーマートでした。アイは岩田屋の頭文字からきたものです。
その後、株式会社ファミリーマートになりました。熊本の火の国祭りでファミリーマートが企業PRでパレードに参加したものです。
なぜ色をつけていたのかいまだに不明です(笑)
宇土のファミリーマートが担当店舗だった時に、夜中に車が突っ込んできて停電を起こした時に、真夜中だったので1時間後に駆け付けたのを覚えています。
この店舗は、冬場と夏場の売上が著しく違うお店で、
冬と夏を比べると売上が10倍なので、繁忙期は本当に忙しかったです。
11月を過ぎると本当に少なくなってしまい「冬眠生活に入りますので、冬場は期待しないでくださいね」と店長から言われたのを昨日のように思い出します。
ちなみに私が妻と知り合ったのもファミリーマートです。
ファミリーマートの前を車で通り掛かると、職業病でしょうか、ついハンドルを駐車場の中へ向かわせてしまいます(笑)
きっと私がお爺さんの世代になるとファミリーマートのことばかり話す面倒くさいおじいさんになるんでしょうね。ハハハ(笑)
デイサービス時代(2000年~2004年)
▲こうしたい。ああしたい。という気持ちが当時からあったようですが、なかなか上手くいかず悩んでいた時期かもしれません。いつの日か働きやすい職場を目指していたのもこの時期かもしれません。
総務部長(2006~2008年)
現場職員と共に過ごした2年間。現場の職員の想いを訴え続けた2年間。叶わなかった悔しさ。職員第一と考えるようになったきっかけの時期。
職員の思いを叶えてあげたい。しかし、総務部長という立場ではどうしようもない。
純粋に仕事に取り組みたい気持ちはもっていたが、できないことに関してのもどかしさを感じていた。
施設長~現在(2008年~)
▲デイサービスの敬老祝賀会での施設長挨拶。自分がデイサービス時代からいらっしゃるご利用者さんがたくさんいました。「あの時が懐かしかぁ~」「入浴介助をよくしてくれたよね」「送迎でよく私の家に来てくれたよね」現場に戻りたいなぁ~と思う事はよくありました。
▲10年間続いていた夏祭りが廃止となり、私の独断と偏見で秋祭りの開催に踏み切りました。あらためて地域の皆さんとのふれあいが重要だなぁと感じました。
▲御船しあわせ日和という和装イベントで街なかギャラリーで撮影した1枚の写真。あらためて日本文化に触れることができた気がしました。
熊本地震発生(2016年4月14日<前震>・16日<本震>)
平成28年熊本地震が発生。まさかの14日間の泊まり込み。終息宣言まで51日の闘い。あの震災があって、改めて、防災意識が目覚める自分がいたように思います。
あんな辛い思いを二度としたくない!全国の方々に支援してくださった恩返しのために、あの時の状況を全国の施設にお伝えしていきたい!
アメリカ講演の実現(2016年6月)
高校時代に、英語を少しだけかじっていたおかげで、2016年6月にアメリカ講演が実現しました。普段なら臆することなく、会場の反応をみながらしゃべることができるのですが、さすがに英語講演だとなかなか、そういうわけにはいきません。
原稿を読むのが必死で、読み上げた後、ホッとしてすべてが終わったような、白紙状態になったことをいまでも覚えています。
世代間交流のお話を中心にさせていただいたのですが、お年寄りと園児が流しそうめんを一緒に楽しんでいるスライドがあり、日本で行う『流しソーメン文化』が興味深かったようです。
終了後、さっそく質問があり『下に流れてしまったソーメンはどうするんだ?』
私はこう答えました。『一度バケツに溜められるので、それを箸ですくって、上からまた流し、もう一回キャッチします。』
会場が『ドッと』大笑いしたことを記憶しています。終わった後は写真のとおり、すべての役目を終えたかのように、爆睡してしまいました。
人生何があるかわかりません。これからまた、新たな自分を見つけられるように、外にしっかりとアンテナを張り巡らせておこうと思います。
全国での講演へ(2016年10月~)
2016年10月の初講演をきっかけに2017年~2019年と全国へ駆け巡りました。その間に防災関係の仲間や同士がたくさんできました。
その後、講演内容の書きおこしで、本を出版するとどうか?というアドバイスをいただいたのがきっかけです。
当時かなりのハイペースで講演活動を行っていたため、体も正直あと何年こうした講演活動ができるのか?不安要素はありました。
書籍であれば、何年経っても変わらず残りますし、書籍なので何度も振り返ることが可能であること。が最大のメリットでもありました。
人生はじめて『熊本地震 いのちを守る全証言Ⅰ』2019年12月に書籍を刊行しました。書店に初めて並んだ時には、自分でも信じられない気持ちを今でもおもいだします。
その後、『熊本地震 復旧から復興へ 全証言Ⅱ』2020年2月刊行、『熊本地震 未来への提言 全証言Ⅲ』2020年(令和元年)5月1日刊行。
書籍完成後、報告したかったのは、すでに他界した父親でした。兄弟の中では一番の問題児だったと自覚しています。『あの洋が、あの僕が書籍を出したよ。』と・・・。
誰よりも、本が好きだった父親ですので、私の本を手にした時のレビューなど厳しい意見が来るかもしれませんね(笑)
もし生きているうちに、この三冊の本を手にしていたらどうだったのか?もし、生きているのであれば感想を聞いてみたい。
こんなんじゃ、だめだ!と言われるかもしれません。しかしながら、今ではもう聞くことができない。私自身、そんな人生を大きく左右する出来事が『平成28年熊本地震』なのです。
災害に関する危機管理を少しでも理解できるよう、防災士の資格にもチャレンジしました。いまではこの防災士の資格が大いに活用されています。
新型コロナウィルスとの境遇(2022年1月18日~2022年3月17日/51日間)
グリーンヒルみふねに未知のウィルス新型コロナウィルスがやってきました。それは、決して目に見えることがなく、どのように戦っていけばいいのか苦悩しました。
最初に確認されたのは、2022年1月18日。最終収息日は2022年3月17日
ここで誤解を生んではいけませんので、補足しておくとします。
1月18日〜1月31日(14日間)はデイサービス
1月25日〜2月24日(30日間)は特別養護老人ホーム
2月25日〜3月2日(7日間)は感染者ゼロ
3月3日〜3月17日(14日間)は華ほたる
58日(感染者が1名以上)―7日(感染者ゼロ期間)=51日間(対峙した期間)
その後、レッドゾーンで対応していた職員また入所されているご利用者が次々と感染していきました。
今の社会の仕組み(2022年3月末現在)では、新型コロナウィルスに罹患した入所者の方は、軽度であれば入院させてくれません。
陽性者を施設の中で看ていかないといけないのです。夜中に目まぐるしく急変するご利用者。そのたびに救急車が来る。救急車は来るが、なかなか受け入れ先が見つからない。
急変したご利用者がいたのに、2時間待たされたこともありました。この社会を憎みました。なんで、私たちが・・・。
医療という術を持たない特別養護老人ホームがなぜ、このようなことを担わなくてはいけないのか?何度も何度も自問自答しました。泣いても叫んでも変わるわけではありません。あまりに長期化したとことから、思考が停止したこともありました。
そんな中、特養の看護職員が全て新型コロナウィルスに感染した時には、絶望の谷に落とされました。もうダメだ・・・神様・・・
何度も何度も天を仰ぎました。日頃よりお世話になってる外部支援の団体より、助け船を出していただきなんとか乗り切ることができたのです。
何より辛かったことは、罹患した方々が責められることでした。言葉では発することはありません。目に見えぬコロナハラスメントでした。世間は黙認していますが、地域はおろか、職員同士でさえ、書類の受け渡しや表情、話し方がいつも以上に違うことは、肌で感じていました。
感染していないのに・・・。そう思った職員も多々いました。罹患した者、しなかった者。それぞれの思いがぶつかり合った51日間でした。
職員の中には、基礎疾患を持った親と同居する者、子供が受験生を抱える者など・・・。特別養護老人ホームで勤務する職員は、避けては通れないのです。見えない恐怖と闘いながら、毎日泣いていました。毎日怯えていました。どうして特養の職員だけがこんな思いをしなくてはいけないのか・・・。
苦しく、悲しく、辛い期間は実に華ほたるの収息を含め、51日かかりました。これも大きな経験です。クラスターという辛い経験をした私たちは、熊本地震を経験し、さらには感染症のクラスターも経験することになったのです。
この経験は、やはり語り継いでいかねばなりません。いつの日か、これを読んでくださっているあなたの前で、お話ししているかもしれません。
2024年4月12日放送NHKクマロク!「熊本地震8年「介護施設の防災」」にて放送
取材を受けて、当時のことが改めて思い出すことができました。
福祉避難所の開設が難しい理由は行政、施設、地域の連携不足によるものだと考えます。
熊本地震の体験を通じて、2024年7月25日講演タイトル「誰一人取り残さない福祉避難所の運命~その課題と私たちの覚悟~」につなげていきたいと思います。